障害はイメージが悪いから障がいって書けって言われて,それ以来障がいって書くように意識しているんだけど,いや日本語難しくない!?って思う。けどそういうことを意識すること自体が,壁を作らない第一歩なんだろうなって思う。
— やなせ (@kznr30_) 2020年9月9日
学習支援もそうだけど,自分が助けてあげていると思ってはいけないと思っていて,自分も学ばせてもらっていると思い続けて,あくまでも立場は子どもと対等と考えなければいけない。もちろん時には大人として教える場面はあるけど,根は曲げてはいけないと思う。
— やなせ (@kznr30_) 2020年9月9日
先日,障がいに対する自分の考えをTwitterで述べた際に,とある方から意見を貰いました.
「障がい関係なく他者を互いに認め合える社会になってほしい」
社会がそうなるのって非常に難しい(現実的には不可能だと自分は思っている)が,それを目指す努力はしなければいけないというのが自分の立場です.
しかし,そんなこと言っている自分も,他人のこと認めていないと反省したのでそのことに触れたいと思います.
自分が学習支援のボランティア団体を設立した当時,とある団体と(かなり)揉めていました.自分は生徒第一に考えてそのためにやれることを何でもやる,という考えだったのですが,その団体はそうではなかったので.結局ほぼ喧嘩別れで追い出されました.
そんな中でしたので設立当初は,「その団体よりは絶対上手くやってやる」みたいな対抗心を燃やし,その団体のことをほぼ全て否定するような思考を持っていました.
しかし,自分で団体を設立して,生徒1人1人に向き合っていきながら活動していく中で,他の団体と比較するのがどうでもよくなってきました.
「自分たちは自分たち」「向こうは向こう」でやりたいことをやっていって結果的に社会が良い方向になれば良いかなと思えるようになりました.
学習支援でもやり方は様々で,基本的に自分のスタイルは,あくまで「教育機会の提供」に重点を置いていて,たとえば生活的な支援はそもそも自分が得意ではないことやそれをできるほどのキャパはないです.(もちろんその分勉強に関してはしっかり見てあげようと思っています.)
他の団体を見ていると自分じゃ出来ないことを淡々としかも何年も続けていて,「すごい…」と感心するばかりです.自分のご飯すら適当なのに,人のご飯も作るのなんて絶対無理.できない.やる元気もない.
また教育観に対する考え方も基本的にはバラバラです.
たとえば,僕は「教育格差をなくしたい!」とは思っていなくて,それは,格差が生まれるのは一人一人の才能や努力による影響を否定できないからで,しかし,あくまで平等な競争社会にしたいという思いでやっています.
(競争社会という言葉自体個人的には好きではないのですが,ここではこう表現します.競争=能力主義につながり,他者を認め合えない自分勝手な社会というイメージを与えてしまうからです.)
しかし,本気で教育格差をなくそうと思って頑張る人はたくさんいます.
他にも教え方について,自分は厳しく教えないタイプですが,中には厳しく教える人もいて,
そういう人が「無料塾には合わない」と嫌厭される傾向にあります.
そういった自分とは異なる一人一人のやり方や価値観を否定すること自体,「多様性を認める」ことを否定することに繋がるような気がしてきます.生徒に「他人を認め合える大人になってほしい」と言いながら,自分はそうではなかったわけです.けどその多様性(特に自分が頑張っているもの)を認めるのって難しいです.
それじゃ多様性を認めるにはどうすれば…と考えたら,結局「自分のやっていることに熱中し,自分勝手になる(自己を確立する)」こと,という結論に至りました.
多様性(他人)を認めるには,まずは自分からと今後の自分に言い聞かせていきたいと思います.