将来の目標と現在の目標

30歳までの目標

予備校で働く中で教える技術を鍛える。(単科講座を貰えるくらいの実力と人気をつける。)

数学や物理に対する理解を深める。(勉強をし直す。)

数学と理科の教員免許を取って、高校の先生になる。

 

40歳の目標

無料で勉強を本気で教える。(予備校講師に劣らないレベルで教える。)

 

 

今の無料塾活動は、あくまで自分が思い描く理想の教育を実行している途中だと考えています。

将来的には、居場所作りではなく“自分が“勉強を無料で教える立場になりたいです。

そのためにはまだまだ教える技術も知識も不足しています。今はその技術と知識を身につけつつ、今の教育活動を行なっていきたいです。

選択肢を増やすことは必ずしも格差是正には繋がらない

最近無料で勉強動画や勉強法を投稿するYouTube,無料で教育動画を配信するサービスが増えてきたように感じます.

中には志高く「無料で教育動画を作ることが,教育格差の是正につながる」と思っていたり,そう謳っていたりする人がいます.

しかし,そうやって無料のサービスの中で競争して淘汰されて残る先に何があるのかを見極めないと,本当にやりたいこととは違った結末を迎える恐れがあります.

今回はそのことについて述べていきます.

 

あらかじめ述べておきますが,この記事は,そういった活動をすること自体を非難するものではありません.

 

教育格差が起こる背景

学校の教育のみで,地域や経済的な背景関係なく,平等な競争によって高校進学・大学進学が可能ではないという前提にまず立ち,学校外での教育が必要であることが,普通だと考えます.(よって「学校の教育だけで高校は受かるし,大学も受かる」という反論はここでは退けます.)

 

そうすると,地域的な格差,経済的な格差によって,子供が受けられる教育水準に格差が生じて,それが結果的に本人の能力とは別に,学力的な差が生じてしまいます.

 

そういった格差を是正するために,

 

「それじゃ,無料で,塾で教えるような進学情報を伝えたり,授業を配信したりすれば,経済的地域的な格差関係なく,アクセスすることができる」

 

と考えます.

(実際そのように考えるのは学生とか特に多いです.)

 

選択肢を増やすとそれを取捨選択する能力が求められる

今回の問題提起です.

アクセスを作れば,教育格差は是正するかと言われると,もちろん,それで役に立つ人はいますが,全体として見ると必ずしもそうとは限りません.

 

理由をいくつか挙げると,

そもそも情報にアクセスしない

・経済的な格差(特に貧困家庭)は,そもそもの環境要因(教育資本)側面もあり,生徒自身の勉強の動機自体がないことが多い.つまり,勉強のやる気がそもそもない.

 

アクセスしても必要な情報を抽出できない

・情報を増やすとそれを取捨選択し,自分に必要な情報だけを抽出する必要がある.元々それが出来る人は良いが,中高生ではそれができない人が多い.

 

結局必要な情報を提供してくれる有料サービスを受けた方がコスパが良くなるわけです.お金をかければ合格する確率を上げられるとしたら,お金をかける家庭が多いからこその現状が今だと思っています.

 

さらに,無料でそういったサービスを誰でも作ることが出来るということは,本当はそれを精査する(本当に正しい情報かどうか判断する)必要がありますが,それは行われないということになります.すなわち投稿者自身が間違った情報を提供しても,それを判断してくれる人はいなくて,そのまま一生存在し続ける可能性があるわけです.特に,学生がそのようなことをやると,その傾向が高まると思います.

 

有料のサービスには有料たるだけの所以があるわけです.無料にしたらじゃあ解決というわけではない上,その活動をただただ続けても,それは単なる自己満足に終わる可能性もあります.

 

それじゃあ,新規参入してはいけないかというとそれがまた難しいところで,そもそもそういった無料のサービスがないと困る人も多いです.なので,なくしてはいけないのですが,ただ多すぎるのも良くないです.だから適宜不要な情報を減らして欲しいのですが,減らすことが第三者から(何かしらの法律違反をしない限り)減らすことができないので,難しいところです.

結局どうすれば格差是正するの?

ではどうすれば格差をなくしていけるのでしょうか.そこには色々な答えがあると思うので,読んだ方は,是非考えてみてください.以下,自分なりの現時点での考えを書きます.

 

自分は格差を是正しようとしないことが結果的に良いと思っています.

どういうことかというと,教育は結局人と人との繋がり,コミュニケーションで決まるので,違いが出るのは当然です.それを格差と呼ばずに,「みんな違ってみんな良い」と思えるようにしていけば良いと思っています.つまり,格差という発想自体を変えていくわけです.

 

格差と呼ぶのは,そもそもの評価軸が偏差値という学力に限定されるからです.実際学力によって確かに能力に差が出ますが,学力以外にもその人の能力を評価することはできると思います.しかし,現状は学歴社会であるが故に,「教育格差」と呼ばれるのだと思います.

 

なので他の評価軸を設けつつ,教育のあり方自体を見直す必要があります.しかし,そんなのんきに考えていては,今の子供たちは不幸を被るので,現状ベストなのが,とりあえず教育的なサービスを受けられていない,弱者の人たちになるべくアクセスし,人と人との繋がりを作る機会を作ることだと思っています.

 

だからこそ,より競争を激化させるような「選択肢を増やす」こと自体,もう少し教育全体を俯瞰して見直して欲しいと,最近思います.

 

あくまで個人的な考えなので,他の人には他の人なりの考えがあると思いますし,それを否定はしないです.また,これは今の自分の考えなので,今後変化していくこともあると思っています.ただ,あくまで自分はこういう風に考えた結果,今の教育活動をしていると思って欲しいです.

多様性を認めるのは難しい

 

 

先日,障がいに対する自分の考えをTwitterで述べた際に,とある方から意見を貰いました.

 

「障がい関係なく他者を互いに認め合える社会になってほしい」

 

社会がそうなるのって非常に難しい(現実的には不可能だと自分は思っている)が,それを目指す努力はしなければいけないというのが自分の立場です.

 

しかし,そんなこと言っている自分も,他人のこと認めていないと反省したのでそのことに触れたいと思います.

 

自分が学習支援のボランティア団体を設立した当時,とある団体と(かなり)揉めていました.自分は生徒第一に考えてそのためにやれることを何でもやる,という考えだったのですが,その団体はそうではなかったので.結局ほぼ喧嘩別れで追い出されました.

 

そんな中でしたので設立当初は,「その団体よりは絶対上手くやってやる」みたいな対抗心を燃やし,その団体のことをほぼ全て否定するような思考を持っていました.

 

しかし,自分で団体を設立して,生徒1人1人に向き合っていきながら活動していく中で,他の団体と比較するのがどうでもよくなってきました.

「自分たちは自分たち」「向こうは向こう」でやりたいことをやっていって結果的に社会が良い方向になれば良いかなと思えるようになりました.

 

学習支援でもやり方は様々で,基本的に自分のスタイルは,あくまで「教育機会の提供」に重点を置いていて,たとえば生活的な支援はそもそも自分が得意ではないことやそれをできるほどのキャパはないです.(もちろんその分勉強に関してはしっかり見てあげようと思っています.)

 

他の団体を見ていると自分じゃ出来ないことを淡々としかも何年も続けていて,「すごい…」と感心するばかりです.自分のご飯すら適当なのに,人のご飯も作るのなんて絶対無理.できない.やる元気もない.

 

また教育観に対する考え方も基本的にはバラバラです.

 

たとえば,僕は「教育格差をなくしたい!」とは思っていなくて,それは,格差が生まれるのは一人一人の才能や努力による影響を否定できないからで,しかし,あくまで平等な競争社会にしたいという思いでやっています.

 

(競争社会という言葉自体個人的には好きではないのですが,ここではこう表現します.競争=能力主義につながり,他者を認め合えない自分勝手な社会というイメージを与えてしまうからです.)

 

しかし,本気で教育格差をなくそうと思って頑張る人はたくさんいます.

 

他にも教え方について,自分は厳しく教えないタイプですが,中には厳しく教える人もいて,

そういう人が「無料塾には合わない」と嫌厭される傾向にあります.

 

 

そういった自分とは異なる一人一人のやり方や価値観を否定すること自体,「多様性を認める」ことを否定することに繋がるような気がしてきます.生徒に「他人を認め合える大人になってほしい」と言いながら,自分はそうではなかったわけです.けどその多様性(特に自分が頑張っているもの)を認めるのって難しいです.

 

それじゃ多様性を認めるにはどうすれば…と考えたら,結局「自分のやっていることに熱中し,自分勝手になる(自己を確立する)」こと,という結論に至りました.

多様性(他人)を認めるには,まずは自分からと今後の自分に言い聞かせていきたいと思います.

自助公助共助について思うこと

最近,色々話題にされる自助公助共助について話していきます.

先日菅官房長官「私が目指す社会像というのは、『自助・共助・公助そして絆』であります」と発言したことに対して,自分の周りの無料塾運営者の間では,「今後格差社会が広がっていくのではないか」という不安が広がっています.

 

ですが,そもそも「自助公助共助」というのは,行政においては広く使用される用語だと思っていて,識者も批判に値するほどではないと考えられています.そこで,それぞれの立場で,今回の発言について考えていき,私自身の考えを最後にまとめたいと思います.

 

 

行政における「自助公助共助」の解釈について

 

www.city.itabashi.tokyo.jp

www.city.tsukuba.lg.jp

 

以下,リンクの通りなのですが,そもそも「自助公助共助(互助)」は広く行政の制度を語る上で使用されるキーワードであることが分かります.

 

以下,板橋区のHPから引用します.

 

自助

自分で自分を助けること。自分の力で住み慣れた地域で暮らすために、市場サービスを自ら購入したり、自らの健康に注意を払い介護予防活動に取り組んだり、健康維持のために検診を受けたり、病気のおそれがある際には受診を行うといった、自発的に自身の生活課題を解決する力。

 

互助

家族・友人・クラブ活動仲間など、個人的な関係性を持つ人間同士が助け合い、それぞれが抱える生活課題をお互いが解決し合う力
相互に支え合うという意味では「共助」と共通するが、費用負担が制度的に裏付けられていない自発的な支え合いであり、親しいお茶飲み仲間づくりや住民同士のちょっとした助け合い、自治会など地縁組織の活動、ボランティアグループによる生活支援、NPO等による有償ボランティアなど幅広い様々な形態が想定されます。

 

共助

制度化された相互扶助のこと。医療、年金、介護保険社会保険制度など被保険者による相互の負担で成り立ちます。

 

公助

自助・互助・共助では対応出来ないこと(困窮等)に対して最終的に必要な生活保障を行う社会福祉制度のこと。公による負担(税による負担)で成り立ち、区が実施する高齢者福祉事業の外、生活困窮に対する生活保護、人権擁護、虐待対策などが該当します。

 

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このように言われてますし,テレビでコメンテーターとしても出ている,野村先生はツイッター

 

と発言しています.

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「自助」と「自己責任」を繋げてはいけないというのは的を得ていて,

「「自己責任で」とは言っていません.自分でどうしようもない部分を地域や行政が救えば良い」

というのが主張です.

 

そして,普段から貧困対策に取り組まれる方も,基本的にこの主張に対して反対はしていなくて,「もちろん自分の力で生きていかなくてはいけないのは分かっているが,現時点で,そうすることができない人が沢山いて,その人たちがこのメッセージを聞いてどう感じるのか考えて欲しい」と思っています.

 

貧困対策に取り組む方の主張

今回は自分がこどもの貧困に特に関心があることから,「貧困対策に取り組む方」と限定しておりますが,他にも,社会的な弱者は多くいて,そういった人たちには共通する話だと思って欲しいです.

 

そもそも菅さんは,安倍さんや麻生さんのような世襲議員ではなく,農家出身の家庭から政治家になったという経緯があり,「能力重視」「叩き上げ」といったイメージがあります.

そういった人からの「自分でできることは自分でする」というメッセージは,「自分ではどうすることもできない人」(職がなかったり家がなかったりこどもだったり…)にとっては,「頑張ろうとする気力」を奪うことに繋がります.

 

そして,世間一般には働くことは当たり前,家があることは当たり前なので,そういった当たり前がない人は,公助共助の力を借りるしかないのですが,少なくとも,共助(民間のNPO団体)のみではどうしようもできないと僕含め活動する人は感じています.

いくら地域社会が充実しても,根本的な格差がなくなるわけではないので,並行して社会保障や職業整備などを充実させていく必要があるわけで,そこを公助の力で補っていかないといけないです.

 

自分生活だけでは済まず,そこに世間の目も関わってきます.

仕事がない人に対しては「仕事は選ばなければある」「真面目に働かなかったから仕事がなくなる」「田舎に行け」など

家がない人に対しては「ネットカフェに泊まらずにもっと働けば良い」「ネットカフェに泊まっていた人をホテルに住ませるために自分たちの税金を何で使われなきゃいけない」など

もちろん大半の人はそうは思っていなくて,思っているのはごく少数なのですが,批判ってごく少数でも心にきますよね.

 

このような批判が多少でもあると,当たり前を享受できない人にとって,当たり前の生活を送れないから「助けて欲しい」と発信しにくい世の中になってしまいます.そして実際にそれがこの世の中には存在するわけです.

 

主張がかみ合わないのはしょうがないが,私たちはもっと考えなくてはいけない

このように「自助公助共助」に対する解釈は往々にして存在し,少なくとも僕は,その解釈に対して「否定する議論をしても不毛」とは思いません.それは,私たちは,もっとこうしてほしいと主張しても良いと思っているからです.

 

しかし,野村先生のコメント欄を見ていると賛同の声が多いのですが,これが現状なんですよね….基本的にみんな頑張っている.自助している.自分も人より努力はしている(つもり).

 

だけど,それと「頑張ることを他人に要求する」ことは違うと思います.

1つ例を挙げます.僕自身,裕福な家庭出身ではなく,大した生活は送っていませんでしたが,(たとえば小遣いは実質なし(全部参考書と模試代に使っていました))そんな中でも,周りが遊んでいる中で勉強して努力してきたからこそ,東大に合格して今があります.

しかし,振り返ってみて,そして今こういった活動をしてきて,自分は環境面ではかなり恵まれていたと感じます.「環境が恵まれていたから頑張れた」わけです.

しかし,環境は人それぞれです.自分と同じ環境を整備して初めて「頑張れるかどうか」が問われるわけです.教育なら,経済格差,地域格差がありますが,それらを是正して初めて平等な競争と言えます.なので,それぞれの環境や立場を考慮した上で,何かを要求するべきだと思います.

 

その上で,広く国民生活を支えていかないといけない立場の方が,「自助」という言葉を使うには重みがあるなあと,心理的には感じます.論理的には何の問題もないのですが.

 

だったら,それを主張すれば良いのですが,いまどき非難すると「自分では何もできない」とか言われる世知辛い世の中ですからね.だけど,「頑張って欲しいならまず環境を整備しろよ」と図々しく行政に要求できる世の中になった方が良いような気もします.「自分で頑張るので,どうしようもなくなったら支えてください」では,どうしようもなくなったときに,「この程度も頑張れない」という思考になる恐れがあります.(そういう思考に至ること自体が,「多様性の否定」であり「能力主義」であることの裏返しなのですが.)

 

だからこそ,そうなっても良いように,そうなる前から要求して欲しいですし,そう要求する人を非難しない世の中になって欲しいなと個人的には思います.

 

まとめ

いくつか自分の主張も交えながら話しましたが,個人的には,まずは,どうしようもできない人を,公助や共助で支えて,その上でお互い助け合いながら,自助できる社会になってほしいと思っています.

「まずは自分が頑張る」という考えに対して自分は賛同できません.

無料で勉強を教えることは難しい

予備校でお金をもらって勉強を教えていて,無料で勉強を教えていて,その両方やっている身として,最近「無料で勉強教えるの難しすぎない?w」と絶望しているので,その絶望感を今残しておこうと思います。

 

(なお心の中で絶望しているうちは,頑張らないといけないと思って頑張っているので,結果が絶望的なものではないかもしれないです。)

 

 

勉強以外に気をかける必要がある難しさ

 

 勉強だけをすれば良いという環境にない子がほとんどです。経済的な問題,精神障がいの問題,学校での問題,家庭での問題,などなど。指導する上で気に留めておかなくてはいけない事項がある人がそもそも多い傾向です。

 ボランティアしていない人向けに説明すると,塾講師とスクールカウンセラー両方の素養(専門的なものとまではいかないまでも)が必要になってくると思ってください。

 予備校で指導するときは,基本的に家庭の話はしませんし,学校の話はしません。勉強だけ気にかけていれば良いのですが,ボランティアの場合はそうはいきません。

 

 多い話として,経済的な問題で進路を悩んでいる生徒があります。高校生の場合,大学行くか就職するかで,奨学金を借りるか学費を払うかどうかの選択肢を迫られます。決して安くはないお金なので,特に兄弟姉妹がいてその長男長女の生徒は,「自分優先でお金をかけて良いのか」「働かなくて良いのか」って悩みます。そんな相談を毎年受けます。

 毎年受ける相談ならある程度対応できるようになるのですが,他にも毎年色々な環境の生徒を見るので,その度に勉強以外にも気を回す必要性を感じます。

 別にお金が欲しいわけではないですけど,無料でここまでやるのかと思うことも多いです。

周りのボランティア関係の人は,本当に好きでやっている人も多くてすごいなと思います。自分の場合は,結局ほっとけなくてやってしまう行動パターンなので,勉強以外に気を回すのが疲れる・・・というのが正直な思いです。かといって嫌いなら3年以上も続いていないと思うので,好きなんだろうとは思います。

 

 

長時間面倒を見ることができない難しさ

 

 塾や予備校なら,自分が出勤しない日も他の誰かはいますし,自分が指導しない他の科目は誰かが教えてくれるので,基本的に自分の指導する科目だけに集中することができますが,無料の場合それができません。

 

 週に1回3時間で複数科目指導するのは厳しく,はっきりいって足りないと感じることの方が多いです。このあたり,早めに受験を意識して,自分の頭で考えて勉強する生徒は心配していないのですが,上記の難しさで示した通り,そう単純じゃないのが難しいところです。そもそも勉強しないと志望校に受からないのに,無駄な勉強を重ねてしまったり,そもそも勉強のモチベをあまり上げられなかったりと。なので,不完全燃焼のまま,受験に突入してしまうことが大学受験を教える場合,多いなと感じます。

 

 この辺り,結局生徒次第なところがありますが,それだと,根本的な教育格差の解決にはつながらないので,もどかしさを感じます。原因は単純な人手不足と環境不足なので,今後これらが好転することを期待します。

 

 

おわり

 まとめると,予備校での勉強を教えることの難しさは,学問的な難しさのみなのですが,無料で勉強を教えることの難しさは,勉強環境から付随する難しさのような気がします。環境を良くしていくことが,まずスタートラインに立つための鍵。

精神的な障がいのある子の指導について思うこと

こんにちは。表題の通り,発達障害を持つ子に対する学習指導について思うことを述べていきたいと思います。

 

実際に仕事として精神的な障がいのある生徒を持ったことはないのですが,趣味として活動している学習支援ボランティアでは,小学生,中学生,高校生,大学生の各世代の精神的な障がいを持つ子の学習指導を行っています。指導では常に悩みがつきまとい,その子の将来に対する不安を意識しながらやっており,不完全燃焼な指導しかはっきり言って現状では出来ていません。

一方でネットで調べても「発達障害の生徒には具体的な指導法はなく,その人にあった指導をしなければいけない」としか書かれておらず,「じゃあどうすりゃいいんだ」と日々苦しみながら教える日々です。

 

ですが,そういった葛藤を伝えることで同様のことで悩んでいる本人・親・指導者の参考になるかと思い,この記事を残しておきたいと思います。

長文になるので,いくつか小出しにして記事を更新していきます。全部出したら,まとめの記事を出したいと思います。

 

 

不安障害

(詳しい病名は忘れてしまったのですが,)通常不安というものは誰しもが持っているもので,それを抱えながらも日常生活には影響がないのですが,先天的または外的な要因によって,精神的な不安で社会的な生活が侵されてしまうレベルの人の学習指導をしました。以下2人紹介します。

 

大学受験生

その子は以前学校,家庭の問題で精神疾患を起こしてしまい,学校を不登校・家にも帰れないという状態になり,当時は一人暮らしをしながら,高卒認定を取り,通信教育を受けながら大学受験をしようとしていました。

はじめて会う予定の日に,急に連絡が入り,「電車に乗ったのですが,不安で行けなくなったので休ませてください」とあり欠席しました。

そのときにはすでに何人かそういう生徒を見たことがあったので,精神的な病気を抱えているんだろうな…と思いました。

 

その後落ち着いて初めて対面したら見た目は普通の女の子でした。服装もオシャレでメイクもしていて,周囲の高校生よりは随分大人びて見えました。

過去自分に起きた出来事や,そこから病気で落ち込んでいた時に支えてくれた社会福祉士を自分も目指したいという話を聞き,これだけの思いを持っているのなら大丈夫!絶対良い社会福祉士になれるよ!と伝え,推薦に向けた小論文の作成の手伝いをしていました。

彼女なりに努力していたのでしょうが,基本的にコミュニケーションが取れる方ではないことや,勉強もあまり得意ではなかったので,小論文の書き方も全くわからず,僕や他の面倒見の良いボランティアに頼りすぎてしまうというのが難点でした。

 

いざ自分の進みたい道を決めてもそれを目指すためのやり方が分からず諦めてしまう…そいう生徒は,精神障害を抱えていると特に多くなってしまいます。なので,あえて突き放したりはせずに,ヒントを与えながら文章を書かせる練習を2ヶ月くらいさせて,本番に挑み,無事合格して今は大学生をしています。

ただ,もともと精神的な症状はまだ改善しきっているわけではないので,大学生活を4年間遅れるかが不安です…。連絡する手段もないので,今も楽しく大学生活を送っていることを願っています。

 

大学生

その子は,有名国立大学の生徒で,自分とはたまたま専門分野が被っていたことで指導にあたることになりました。はじめは,「不安障害がある」「すでに2回留年が決まっている」と連絡があり,勉強面以外に問題あるのか…と身構えていたのですが,実際に会うと,話し方も普通で,勉強もそれなりにできる男の子でした。

実際に指導をしていても初めの2ヶ月は全く問題なく進めていました。しかし,試験が近くなってくると問題が起きます。

 

精神的な不安で勉強に身が入らないので今日の指導を休ませてください。

 

と急に連絡が来て,そこからほぼ1ヶ月試験直前まで,授業も全く頭に入ってこない,課題も提出できない,という状態になってしまいます。本人は不安が襲ってきて,勉強が手につかなくなると言いました。自分自身はそういった経験はなかったので,一時的なものだろう・まあ大丈夫だろうと楽観視して,「とりあえず今ある試験を頑張ろう」と軽くアドバイスする程度でした。

しかし,多少の勉強では結果が出てこないのが,その大学の試験で…。それなりに課題をしっかりやるか,地頭が良くて要領よく乗り切るかできないと単位取れなかったわけです。

 

結局単位を1つも取れず 最初の試験を終えます。

 

試験が終わる頃には症状も随分と軽くなり,次頑張ろうという気になります。自分も,それじゃ今度はもっと管理して,課題は逐一見せて欲しいと伝え,丁寧に指導しました。

しかし,それが本人にとっては不服だったみたいで,「周りは卒なくこなしているのに,自分はここまでしてもらわないといけない」って自己嫌悪に陥って,また不安が襲ってきました。そのときは,ある程度課題の蓄積や勉強の蓄積があったおかげで,なんとか乗り切れたのですが,それでもフル単とはいかなかったです。

 

普通の生徒なら(言い方悪いと劣等生なら),勉強できないことを開き直っているので,手厚い指導に対して不満を感じないんですよね。しかし,今まで成績良かった生徒って,どこかで躓くとプライドが邪魔したり,劣ることを受け入れられなかったりします。その生徒がそういうタイプというわけではなかったのですが,できない自分を責めていたのだろうなと当時は思います。

 

そして,今年度に入るのですが,今年度はなるべく自分の力でやりたい,精神が安定しているときになるべく課題をやって勉強を進める,ということで取り組んでいます。また,普通の人に合わせるのではなく,遅れても良いから,目の前のことを1つ1つクリアしていくと目標を立てたみたいです。

 

その子にあったやり方で結果がついてくれたらいいなと思います。

 

続きは別の記事に書きます。

新型コロナクラスター対策専門家のメッセージについての意見

 

論理的な誤りを淡々と指摘する投稿です。

専門家が出す記事だから安易に鵜呑みにせず、懐疑的に判断もせず、あくまで文章からわかることを指摘します。

 

 

2段落目

・危機感のレベルがオーバーシュートしてしまっているように感じられる

3段落目

・非常に低いレベルに設定されている人工呼吸器などの集中医療の限界を超える危険性が迫っている

 

危機感がオーバーシュートしている(すなわち危機感を持ちすぎ)と言っておきながら、集中医療の限界を超えると言っています。もう少し落ち着いたら医療の限界は超えないのかと言われたらそうではないでしょう。集中医療の限界を超えるのなら、そうならないようにもう少し危機感を持て、と伝えるのではと思います。

 

5段落目

・集中治療の限界を超えることと欧米の医療崩壊には大きな隔たりがあって、日本はまだその状態にない

 

4段落目まで、集中治療ができないと救える命が救えないと表現していて、その状態は超えても、欧米ほどの医療崩壊には至らないと考えています。押谷先生は、「集中治療が限界を超える危険性が迫っている」とおっしゃっていたようですが、それを超えてしまうことは起こりつつあると認めています。

危機感を抱かせたいのか、集中治療は崩壊してもまだ医療は大丈夫だよと安心させたいのかわかりません。

 

6段落目〜8段落目

・感染者の急増が一定の段階を超えると、感染者が指数関数的に増えていく

 

この辺りデータがないのでわかりませんが、おそらく1日あたりの患者数の増加の割合がある閾値を超えると指数関数的に増えると言っています。(はっきりいって当たり前です…)そもそも、感染者が増えれば増えるほど、特にクラスターが特定できないような感染経路が不明な感染者が増えれば増えるほど、それは指数関数的に増えるはずです。指数関数的に増えることは当たり前なので、どのラインが「急増」を意味するのか示す必要があるはずです。

 

・都市封鎖をして自宅待機を徹底させる必要がある状態にはまだない

 

そもそもの根拠となっている、集中治療が崩壊→欧米の医療崩壊のラインがどのくらいなのか、そのためには感染の急増をどの程度までに抑える必要があるのかが不透明です。

これは文章にはないですが、検査数が少ないとも言われており、実際の感染者がどの程度か不明です。そのような状況下で集中治療が崩壊するのが迫っていて、それでもこのままでいけば大丈夫と思える根拠がこれだけでは乏しすぎます。

 

・いわゆる「3密」のホットスポットに行きさえしなければ…

感染者の感染経路を特定するのは、あくまで「3蜜のスポットに行ったから、感染した」という事例の集まりです。それはあくまで傾向の話で、3蜜のスポットに行かなければ感染するリスクは低い、とまではいきません。感染経路が不明の感染者が増えている今ならなおさらこうとだけ結論づけるのは早計だと素人目線でも思います。

 

・3密のスポットで大声を出す環境で感染が指数関数的に拡大する

事例として、ライブハウスが考えられています。そのため医療現場に殺到することを避けるよう求めています。しかし、3密を避ければ指数関数的に感染は拡大しないという根拠はないです。それなのに、3密を避けると感染は拡大しないと断定しています。

 

 

まとめ

そもそも私たちが想定している医療崩壊は、集中治療の限界が超えてしまうことなのですが、押谷先生の中ではそうではないようです。はじめの文では危機感を煽りながら、そのくらいは仕方ないけど3密防げば大丈夫だよと言われても納得しないでしょう・・・

だって、3密防いでも、もし感染して重篤化したら集中治療受けられなくて助からないよと言っているのだから…。

 

そもそも指数関数的に増えなくても増加量が治る量より多ければいずれ医療は崩壊する気がします。指数関数的という表現には気をつけて欲しいです・・・